
「教員はなぜ、これほど無理をするのか」
教員の長時間労働が問題視されて久しい。働き方改革が叫ばれ、給特法の見直しも議論される。それでも現場は変わらない。なぜか。
その問いに答えるために、二つの概念を組み合わせて考えてみたい。教育社会学者・内田良が提唱する「学校依存社会」と、臨床心理学が長年向き合ってきた「共依存」である。
学校依存社会とは何か
内田良(名古屋大学教授)は、日本社会が子どもの育成に関わるあらゆる機能を学校に過剰に委ねている状態を「学校依存社会」と呼ぶ。その定義は明快だ。「学校の過度な業務負担に依存するかたちで社会全体が安定的に維持される状況」(岩波書店『世界』2025年4月号)。
具体的にはこういうことだ。子どもが夜に出歩いていれば、地域住民は学校にクレームを入れる。家庭でのトラブルも、最終的には学校に持ち込まれる。土日の部活動指導は当然のこととして期待され、保護者への連絡は勤務時間外に及ぶ。本来、家庭が、地域が、行政が担うべき機能が、次々と学校へと流れ込んでいる。
なぜこうなったのか。教員が引き受けてきたからだ。問題が発生するたびに学校が吸収してきたため、社会はその機能を自ら担い直す必要を感じずにいられた。献身的な教員の存在が、構造的な問題を見えにくくしてきた。
これは告発として重要な視点だ。しかし一つの問いに答えていない。では、教員はなぜ引き受け続けるのか。
共依存とは何か
共依存(Co-dependency)は、1970〜80年代のアメリカでアルコール依存症の臨床研究から生まれた概念だ。
アルコール依存症者を長年支えてきた家族に、ある共通のパターンが観察された。依存症者の問題行動を隠蔽し、尻拭いし続ける。「この人には自分が必要だ」という感覚に強く執着する。自分自身のニーズを後回しにして相手に奉仕することで、かえって自己価値を確認する。
支える側が依存症者の問題行動を、意図せず維持・強化してしまうという逆説的な構造。これが共依存の本質だ。
共依存の最も重要な特徴は、「助けているつもりが問題を解決させない」という点にある。世話をすることで自己価値を確認している人にとって、相手が問題を解決してしまうことは、自分の存在意義の喪失を意味する。無意識のうちに、相手が「問題を持つ存在」であり続けることを必要としてしまう。
そしてもう一つの特徴として、当事者はこれを問題だと思っていないことが多い。むしろ誇りや使命感がある。手放すことは「見捨てること」「無責任になること」として感じられる。問題行動が徳として経験される——これが共依存の最も巧妙な罠だ。
学校共依存社会——二つの概念の接合
ここで、二つの概念を重ね合わせてみる。
内田の「学校依存社会」は、社会から学校への一方向的な過剰依存を描く。共依存の概念はその逆側、引き受ける側の心理的回路を照射する。両者を接合したとき、「学校共依存社会」という構造が浮かび上がる。
構造はこうだ。
社会・保護者・国家は、子どもに関わる問題を学校に委ねる。教員はそれを引き受ける。なぜ引き受けるのか。「子どものために」という純粋な動機がある。しかしそれだけではない。過剰な期待に応えることは苦しいが、同時に「この子たちには自分が必要だ」という強烈な有用感と使命感をもたらす。部活動で生徒と深く関わり、家庭に問題を抱えた生徒を放課後に支える——それは長時間労働であると同時に、教員としてのアイデンティティの核心でもある。
教員が引き受けることで社会の依存は深まり、社会の依存が深まることで教員の「必要とされる感覚」は強化される。双方が相手の機能不全を必要としている。どちらかが意図した支配関係ではなく、全員が善意を持ちながら構造を再生産し続けている。
そして共依存の逆説がここでも働く。教員の献身は目の前の子どもを救いながら、同時に構造変革を遅らせる力として機能している。保護者は子育てを学校に任せたままにできる。地域は地域教育を省略できる。国家は教育への予算投入を先送りできる。助けているつもりが、問題を解決させない。
構造が見えないことの問題
共依存の臨床でまず直面する困難は、当事者に構造が見えないことだ。「私は相手を助けている」という物語しかない。
学校共依存社会においても、構造は誰にも見えていない。
保護者は「先生に任せれば大丈夫」という安心を、依存とは思っていない。国家は教員の善意による無償労働を予算節約の手段として用いながら、それを「教師の使命」と呼んでいる。そして教員は「子どものために」という動機の純粋さゆえに、自分が構造を維持していることに気づかない。全員が善意の共犯者であり、全員に構造が見えていない。
だからこそ、まず必要なのは可視化だ。「学校依存社会」「学校共依存社会」といった概念が果たす役割は、この構造に名前をつけることにある。名前をつけることが、認識の出発点になる。
「断ること」の再解釈
共依存の回復において、最も困難なのは「断ること」への罪悪感から自由になることだ。
教員にとってもこれは同じだ。「これはお引き受けできません」と言うことは、長い間「冷たい教員」の証として内面化されてきた。
しかし共依存の回復が教えるのは、境界線を引くことは「見捨てること」ではないということだ。むしろ、相手を一人の主体として尊重することであり、相手が自分で解決する力を取り戻す可能性を開くことでもある。
学校共依存においても同じことが言える。教員が過剰な期待を断ることは、子どもへの愛情の放棄ではない。保護者が子育ての主体性を取り戻すきっかけになりうる。地域が地域の教育機能を再発見するきっかけになりうる。国家が教育への責任を正面から引き受けるきっかけになりうる。断ることが、構造変革の始まりになりうる。
個人の問題ではなく、構造の問題として
ここで強調しておきたいことがある。
「学校共依存社会」という概念は、教員個人を責めるための言葉ではない。過剰な献身を続けてきた教員を、「共依存に陥った人」として糾弾することは、問題の本質を見誤る。共依存の当事者は悪意がないどころか、深い愛情と責任感を持っていることが多い。問題は個人の心理ではなく、その心理が合理的な選択として成立してしまう社会構造にある。
変革のために必要なのは、制度的な境界線(職務範囲の法的確定)、関係的な境界線(組織・集団として「これはお引き受けできない」と言える状況)、そして心理的な境界線(断ることへの罪悪感からの自由)の三層が、同時に変わっていくことだ。
どれか一つでは足りない。制度を変えても教員の心理が変わらなければ過剰な引き受けは続く。心理が変わっても制度が変わらなければ圧力は続く。三つの層が連動して初めて、構造は動く。
おわりに
学校共依存社会を手放すとは、学校を弱くすることではない。
それは、社会全体が子どもに向き合う力を取り戻すことだ。保護者が子育ての主体として立ち直ること。地域が教育の担い手としての機能を再発見すること。国家が教育への責任を、教員の善意に転嫁せず正面から引き受けること。そして教員が、過剰な自己犠牲ではなく、専門家としての深い関与によって子どもと向き合えること。
共依存の回復が「相手を見捨てることではなく、お互いを本当の意味で尊重することだ」と気づくように、学校共依存の解体もまた、より豊かな教育の実現に向けた、社会全体の成熟として理解できる。
その出発点は、構造に名前をつけることだ。そして「これでいいのか」と問い続けることだ。
※本稿で用いる「学校共依存社会」は、教育社会学者・内田良氏の「学校依存社会」論(岩波書店『世界』2025年4月号ほか)と、臨床心理学における「共依存(Co-dependency)」概念を接合したものです。


