第26回:戦争はなぜ起きるのか――「平和を守る」ために知っておくべき、戦争への道の構造

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はじめに――「平和が大事」では平和を守れない

日本の平和教育は、戦争の悲惨さを伝える点では大きな役割を果たしてきた。しかし一方で、「なぜ人々は戦争を支持するようになるのか」「どのようにして社会は戦争へ向かうのか」という過程の学びは、十分に深められてきただろうか。

「戦争は悲惨だった」「二度と繰り返してはならない」――この言葉を、おそらく日本で教育を受けた人のほとんどが知っている。しかし、「なぜ起きたのか」「どのようにして普通の市民が戦争を支持するようになったのか」という問いに、自信を持って答えられる人は驚くほど少ない。

結果への拒絶は教えるが、過程の構造は教えない。悲惨さの継承に加えて、戦争へ向かう過程そのものを学ぶことが、平和教育には求められているのではないだろうか。

平和を守るためには、平和が壊れるメカニズムを知らなければならない。医学の言葉を借りれば、病の症状を嫌うだけでは治療にならない。病理を理解してはじめて、予防ができる。

本稿では、歴史と社会科学の知見をもとに、「戦争に突き進む社会」がいかにして生まれるかを構造的に論じる。

第一段階:不満と不安の蓄積

戦争は突然始まらない。その前段階として、必ず社会的な不満や不安の蓄積がある。

経済的な停滞、格差の拡大、社会的地位の喪失感、将来への見通しの暗さ――こうした状況は、人々の心理に「何かが間違っている」という感覚を植え付ける。重要なのは、この感覚が必ずしも事実に基づかなくてよいという点だ。「客観的な貧困」ではなく「主観的な剥奪感」が、歴史的に見ても動員の引き金となってきた。

1920年代から30年代の日本を考えてほしい。恐慌による経済的打撃、農村の疲弊、格差への怒り。人々は「今の状況を変えなければならない」という強い衝動を持っていた。問題は、その衝動がどこへ向けられるかだった。

これは遠い過去の話ではない。経済発展の停滞、不平等の拡大、将来への不信感が高まるとき、人々の政治的態度が変化することは、現代の社会政治心理学研究でも繰り返し確認されている。

第二段階:「敵」の創出と外部化

蓄積された不満は、内部改革ではなく「外部の敵」への攻撃として処理されることがある。これは政治的に非常に有効な操作である。

なぜか。内部の問題(格差、腐敗、制度の機能不全)を解決するには、複雑な構造改革が必要で、利益を失う既得権益層との対立が避けられない。一方、「外敵」を設定すれば、内部の矛盾を棚上げにしたまま、社会的エネルギーを一点に集中させられる。

扇動の論理は単純である。「お前たちが苦しんでいるのは○○のせいだ」。○○には、外国、民族的少数者、移民、エリート、メディアなど、状況に応じてさまざまなものが入る。重要なのは、その「敵」が実際に問題の原因である必要はまったくないという点だ。スケープゴートは論理的正確性ではなく、感情的な納得感によって選ばれる。

ここで鍵を握るのが「単純化」である。複雑な社会問題を単純な因果関係に還元し、「敵を倒せば問題は解決する」という物語を提供する。この物語の魅力は、知識量や教育水準に関わらず多くの人を引き込む。人間の認知は本来、複雑さより単純さを好むからである。

第三段階:メディアと同調圧力による増幅

「敵」の物語が社会に広まるには、増幅装置が必要である。かつてはラジオや新聞がその役割を担った。現代ではソーシャルメディアがある。

現代のプラットフォームは、条件によっては「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」を強める方向に働く。アルゴリズムは人々が見たいものを見せ続けることで滞在時間を最大化する設計になっており、結果として自分と同じ意見が強化され、異なる視点への接触が減りやすい。ただし、この効果の大きさについては研究者の間でも議論があり、プラットフォームの種類や利用者の属性によって異なることが指摘されている。重要なのは、こうした傾向が「あり得る」という認識を持つことだ。

さらに問題なのが「多元的無知」の機能である。多くの人が内心では疑問を持っていても、「周囲はみんなそう思っている」という誤った認識から、沈黙を選ぶ。この集団的な沈黙が、少数意見を「多数派の意見」に見せかける。昭和初期の日本でも、内心では戦争を疑いながら声を上げられなかった人々は決して少数ではなかった。

第四段階:異論の封殺と「空気」の支配

臨界点を超えると、異論を唱えること自体がリスクになる。

「非国民」「売国奴」「敵のスパイ」――こうした言葉は、内容への反論ではなく、発言者の人格や忠誠心への攻撃である。この戦略は合理的だ。議論の土俵に乗ると負けるかもしれないが、「議論する資格がない者」として排除すれば、議論自体を封じられる。

山本七平の概念「空気」はここで決定的な役割を果たす。明示的な命令がなくても、「みんなそう思っている」という感覚が行動規範となる。個々人は「自分の意見」ではなく「空気の読み取り」によって行動を決める。この状態では、誰も「決めた」わけではないのに、集団全体が一方向に動いていく。

第五段階:危険な指導者が「選ばれる」構造

ここで見落とされがちな問いがある。戦争に突き進む社会では、なぜそれを主導する指導者が権力の座に就くのか。

第二次世界大戦後、心理学者や政治学者たちはこの問いに向き合った。アドルノらによる『権威主義的パーソナリティ』(1950年)は、権威への服従と攻撃性が結びついた心理構造を持つ人々が、なぜ独裁的指導者を支持するのかを論じた先駆的研究である。その後の研究は、指導者側の振る舞いにも焦点を当てていく。

現代の心理学では、ナルシシズム(誇大な自己像と賞賛への渇望)、マキャベリズム(目的のためなら手段を選ばない操作性)、サイコパシー(共感の欠如と衝動的な残忍さ)という三つの特性の組み合わせを「ダークトライアド」と呼ぶ。こうした振る舞いが、社会不安の中では「強さ」「決断力」「突破力」として読まれやすい点が問題である。

躊躇なく決断できること、嘘をつき続けられること、自分の偉大さを疑わないこと――通常であれば危険信号となるこれらの特性が、社会が「強いリーダー」を求めるとき、むしろ魅力として機能する。危機的状況においては、道徳的抑制がないことが「決断力」に、残虐な手段が使えることが「強さ」に見える。

さらに深刻なのは、こうした指導者が危機を自ら維持・強化することで、自分がより必要とされる状況を作り出せるという循環だ。危機と指導者の間には、相互強化の構造がある。

だが最も重要な事実は、こうした指導者の多くが最初から暴力で権力を奪ったわけではないという点だ。ヒトラーもムッソリーニも、選挙・任命・連立・議会といった「合法性の外形」を利用しながら、暴力・威嚇・エリートの協力を組み合わせて権力を掌握していった。独裁者は暗闇から突然現れるのではなく、民主的な手続きの隙間から育つ。

なぜ選ばれるのか。不安と不満が蓄積した社会では、人々は認知的な単純化を求める。「俺が全部解決する」という物語は、複雑な構造改革の説明より圧倒的にわかりやすい。民主主義の選挙は、こうした「わかりやすさの競争」になりやすい構造的弱点を内包している。

第六段階:制度の形骸化と権力集中

指導者が権力を握った後、民主主義的な制度は形骸化していく。

重要なのは、これが多くの場合、制度の「廃止」ではなく「乗っ取り」として行われるという点だ。選挙は行われる。議会は機能しているように見える。報道の自由は名目上存在する。しかし実質的な機能は失われていく。

民主主義研究機関V-Demの報告によれば、ハンガリーは2009年にはリベラル・デモクラシーとして分類されていたが、その後チェック・アンド・バランスが段階的に弱められ、2018年には「選挙権威主義」に分類されるに至った。この変化に要したのはわずか約10年である。劇的なクーデターより、緩慢な制度侵食のほうが、現代では危険な形をとりやすい。

司法の独立の侵害、メディアへの圧力、選挙制度の恣意的な変更、市民社会組織への制限――こうした変化はそれぞれ単独では小さく見えるが、複合することで民主主義の自己修正機能を失わせる。制度が壊れたと気づいたときには、すでに修正する手段も失われている。

「昔話」ではない理由

以上の構造は、歴史的事例の整理にとどまらない。

経済的不満の政治的動員、「敵」を設定することで支持を集める政治手法、「空気」による異論の自己検閲、そして民主的な手続きの隙間から台頭する権威主義的指導者――これらは現代の民主主義社会で、程度の差こそあれリアルタイムに進行している。

特に注意すべきは、この構造が特定の「悪人」によって一方的に動かされるわけではないという点だ。不満を持つ市民、それを利用する政治家、増幅するメディア、沈黙する知識層、同調する一般市民――それぞれが自分なりの合理性をもって行動しながら、集合的に破局へと向かっていく。責任の所在が分散しているからこそ、止めにくい。

そして最も看過されがちなのは、有権者一人ひとりの「選択」がこの構造の中に組み込まれているという事実だ。「自分は騙されない」という自信こそが、最も危険な前提かもしれない。

おわりに――構造を知ることが、防衛になる

「二度と戦争を繰り返してはならない」は正しい。しかしそれだけでは不十分である。

戦争は、悪意ある少数者が突然引き起こすものではない。不満の蓄積、敵の創出、物語の増幅、異論の封殺、危険な指導者の台頭、制度の侵食――この連鎖が、普通の社会の中で、普通の人々の選択の積み重ねによって進行していく。

だからこそ必要なのは、この連鎖のどこかで「おかしい」と気づける市民を育てることだ。

「人々はなぜ戦争を支持するようになるのか」 「どのような言葉・物語が動員に使われるのか」 「危険な指導者はどのような振る舞いをし、なぜ選ばれるのか」 「自分は今、その構造の中にいないか」

批判的思考とメディアリテラシーは「便利なスキル」ではなく、民主主義の防衛装置である。歴史を「出来事の暗記」としてではなく「構造の分析」として学ぶことが、悲惨さの継承と並んで、平和教育に求められているのではないだろうか。

過去を知ることは、現在を生き延びるためにある。

本稿は、歴史的・社会科学的知見に基づく論考であり、特定の政党・人物を支持または批判する意図を持たない。

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