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要約
令和8年8月4日にオンライン開催された科学技術・学術審議会学術分科会人文学・社会科学特別委員会(第32回)では、「人文学・社会科学の更なる発展のためのAI for Scienceに関する当面の施策の方向性(案)」が議題となり、前回(第31回、R8.7.17)で出された委員の意見を踏まえた資料2-1(概要)と資料2-2(本文案、全6章構成)が示された。この方向性案が示す最大の論点は、AI for Scienceが人文学・社会科学にもたらす可能性を4つの観点――各分野への裨益、研究プロセスの高速化と質の向上、質的研究の事後的検証可能性の向上、創造性の発揮と新たなネットワーク構築――から積極的に評価する一方で、その実現を阻む課題を5つの側面(研究体制・コストの変化、AIに準拠したデータインフラの構築、権利問題、AIへの理解、透明性・信頼性の確保)にわたって具体的に列挙している点にある。
第31回における委員意見では、素案が「総花的」でメリハリに欠けるという総論的批判に加え、AIの基盤が英語データに偏っている現状に対し日本語データの整備を「喫緊」に進めるべきだという指摘、AIがどれだけ発展してもアナログな社会・文化・地域課題を言語化する営みとしての人文学・社会科学の役割は変わらないという主張、そして研究へのAI利活用が自然に進行するのであれば「なぜ政策が必要なのか」を明確にすべきという根本的な問いかけまで示された。これらの意見は資料2-2の本文に一定程度反映されており、5.2節では「AIの利活用が進んだとしても、人文学・社会科学の各分野の価値は変わらないものであり」という補論的な記述が加えられている。
課題認識としてとりわけ重要なのは、資料2-1の「直面する課題と今後の方向性」の対応表で整理された4段階(環境整備・体制整備段階、データ基盤・準備段階、研究・分析の実行段階、成果創出・価値検証段階)の構造である。データ基盤・準備段階では、市民・地域が保有する古典籍・古写真・調査票等の資料のデジタル化が「点在的」にしか進んでおらず、研究者やAIが日本の文化・歴史・社会の全体像を「面」として捉えられる状況になっていないという課題が明示された。また、データインフラ構築は原資料の専門家が「膨大なコストをかけて行うもの」であるにもかかわらず、そのことへのインセンティブが働いていない現状も率直に記載されている。権利問題については、所有権・肖像権・著作権等が複雑に絡み合う中で、AIによる二次利用の容易化がかえって権利者の意図しない利用を招くリスクを高めているとし、対応のためのノウハウや支援体制が「十分ではない」と課題が明記された。
研究・分析の実行段階では、人文学・社会科学の研究者間でAIやデジタルに関する知識・スキルの水準に「大きな差がある」ことが指摘され、その背景として体系的に習得できる環境の乏しさが挙げられている。成果創出・価値検証段階では、学習データの欧米中心性に起因する日本文化等に関する誤出力リスクや、ハルシネーションへの対応として研究者の責任における検証・解釈に加え「人間の価値観による補正」(Human in the loopの考え方)の重要性が強調され、その価値観を明らかにする役割を人文学・社会科学が担うという位置づけが示された。第6章では、AIが人間の思考・行動や、法・政治・行政の諸制度が依拠してきた基礎概念そのものに与える影響についての「問い直し」が、今後の課題として引き続き議論すべき事項に位置づけられている。
以上の内容を踏まえ、本稿では現場視点から4点の懸念を指摘する。
現場視点の一般的な懸念
懸念1:新たに求められる業務が研究者の既存業務に単純に上乗せされる構造になっている
方向性案は、AIリテラシーの習得、データ構築、権利処理対応、機関間ネットワークへの参画など、研究者に新たに求められる役割を数多く列挙しているが、これらが教育・研究・大学運営といった既存業務にどのように組み込まれ、どの程度の時間・労力を要するのかという業務量の見積もりには触れていない。4.1節では研究コストの構造変化を「整理し直す必要がある」と課題認識までは示されているが、具体的な時間的コストの試算や、それに見合う人員・予算の手当てには言及がなく、結果として個々の研究者の善意や自助努力に委ねられる懸念が残る。
懸念2:AI・デジタル理解度の格差が個人のスキル差として扱われ、背景にある機関間格差への言及が薄い
4.4節では「研究者間でのAIやデジタルに関する知識やスキルの水準に大きな差がある」ことが課題とされ、5.4節でも人材育成プログラムやユースケース共有による解決が提示されている。しかし、この格差が生じる背景には、大学・研究機関ごとの予算規模や情報系人材の有無といった構造的な条件差が存在する可能性が高く、それを個人の学習機会の問題として位置づけるだけでは、資源に乏しい機関の研究者が置き去りにされるリスクがある。
懸念3:市民・地域保有資料のデジタル化について、恒久的な財政支援の枠組みが示されていない
4.2節では市民・地域が保有する資料のデジタル化が「点在的」であるという課題が的確に指摘され、5.3節でも支援の必要性が述べられているが、示されている対応策は「先進的な事例の蓄積と共有」(5.4節)が中心であり、実際にデジタル化作業を担う人員配置や恒常的な予算措置についての具体像は乏しい。データインフラ構築を担う原資料の専門家へのインセンティブ不足という、資料自体が認めている構造的課題に対し、事例共有だけで実効性のある解決に至るのか、現場からは疑問が残る。
懸念4:データ構築を「正当な業績として評価する」という提言が、評価制度改革の具体像を欠いたまま示されている
4.2節では、高精度かつ大量なデータを構築することを学術界が「正当な業績として評価することが必要」と明記されている点は重要な問題提起である。しかし、これが大学の人事評価、科研費等の競争的資金の審査基準、学会における業績評価とどう連動するのかについての制度設計は示されておらず、理念の提示にとどまっている印象が強い。評価制度が変わらない限り、データ構築という労力のかかる作業に取り組む研究者にとってのインセンティブは実質的に生まれない。
現場視点の一般的な懸念を踏まえた改善提案
改善提案1:業務量調査に基づく人的資源配分とエフォート管理の明確化
AI活用に伴い新たに発生する業務(データ構築、権利処理対応、AIリテラシー習得等)について、研究者へのヒアリングやサーベイを通じた実態調査を実施し、既存業務との兼ね合いでどの程度のエフォートが必要になるかを可視化した上で、データキュレーターや権利処理支援人材といった専門職を恒常的に配置するための予算措置を検討すべきである。
改善提案2:機関間格差の実態調査と重点的な資源配分
AI・デジタル理解度の格差について、個人の学習履歴だけでなく、所属機関の規模・予算・情報系人材の有無といった構造的要因を含めた実態調査を行い、格差が大きい機関に対しては人材育成プログラムの提供にとどまらず、財政的な重点配分を通じた是正策を講じるべきである。
改善提案3:地域アーカイブ拠点への継続的な財政支援制度の創設
市民・地域保有資料のデジタル化を「点」から「面」へと進めるためには、事例の収集・共有にとどまらず、地域の博物館・図書館・大学等をアーカイブ拠点として位置づけ、専門人材の配置と機材整備のための継続的な財政支援制度を創設することが必要である。
改善提案4:データ構築を業績として評価する制度の具体的な設計とロードマップの提示
データ構築を正当な業績として評価するという理念を実効性のあるものとするため、大学の人事評価基準、科研費等競争的資金の審査項目、学会の業績評価慣行のそれぞれについて、どのような指標や仕組みでデータ構築を評価に組み込むのかを具体的に検討し、実施までのロードマップを次回以降の委員会で示すべきである。


