
森有礼の夢と悪夢——合理主義的教育改革が精神主義に飲み込まれるとき
📚 本稿は「振り子としての日本教育史」の続編です。
前回のコラムで、森有礼を「近代教育制度の完成者」として紹介した。しかし彼は単純な国家主義者ではなかった。森が追い求めたのは儒教的な忠君愛国ではなく、近代国家に必要な「機能する人間」を育てる合理的な教育だった。そして彼は1889年、国家神道・天皇崇拝の立場をとる右翼によって暗殺された。
この構造が、2026年の日本に奇妙なほど重なって見える。
森有礼とは何者だったか——再読
森有礼は1847年生まれ。薩摩藩出身で、イギリス・アメリカへの留学経験を持つ。帰国後は福沢諭吉らと明六社を結成し、「英語を国語にすべき」と主張するほどの急進的西洋化論者だった。女性教育にも積極的で、男女共学を推進した。どう見ても、当時の「国粋主義者」とは対極の人物である。
それにもかかわらず、森は右からも左からも批判された。国粋主義者の目には「伊勢神宮で靴を脱がなかった不敬者」「天皇を軽んじる危険人物」として映り、自由民権派の目には「師範学校を軍隊式規律で管理する統制主義者」として映った。
この二重の批判が、森の立ち位置を正確に示している。彼が目指したのはどちらでもなく、「富国強兵のための近代的人材育成」という第三の立場だった。国家主義ではあるが、精神主義ではない。その違いが、最終的に彼の命を奪った。
2026年の文科省は、森有礼に似ている
現在の文部科学省が推進する教育政策を並べてみると、その思想的系譜が見えてくる。GIGAスクール構想でデジタル技術による国際競争力の育成を掲げ、STEAM教育・探究学習で「知識の詰め込みではなく使える力」を求め、Well-being・非認知能力の育成でOECD基準に沿った「全人的な人材」の養成を図り、教員の「専門職化」で教師を機能的なプロフェッショナルとして再定義する。
これらは一貫して「グローバルな競争に勝てる日本人を育てる」という合理主義的・機能主義的な発想に基づいている。森有礼が「国家に有用な人間の育成」を目指したのと、構造的に同じだ。
ただし、森と現在の文科省はどちらも、精神的国家主義——「日本人らしい魂を育てる」という方向——とは一線を画している。どちらも「国家のための教育」でありながら、その中身は実は根本的に矛盾している。この矛盾が、問題の核心にある。
同時進行する「教育勅語的なもの」の復権
文科省がGIGAを進める一方で、別の流れも同時に進行している。道徳の教科化(2018年)では「特別の教科 道徳」として評価対象となり、愛国心・公共の精神が内容に含まれた。2006年の改正教育基本法では「我が国と郷土を愛する態度」が明記された。2017年の閣議決定では教育勅語の「教材としての使用」が完全否定から部分的容認へと転換し、歴史教科書記述への政治的介入も常態化しつつある。
GIGAで合理化された教育インフラの上に、道徳・愛国心・「日本人としての誇り」が乗っかってくる。器は森的、中身は教育勅語的——これが最悪の組み合わせだ。
安倍政権が示した「二枚舌の構造」
この二つの流れが同一政権内に共存した典型例が、安倍政権(第二次、2012〜2020年)だった。経済・教育政策の顔としては、アベノミクス・グローバル人材育成・スーパーグローバル大学・英語教育強化というOECD的な「使える教育」を推進した。他方、文化・歴史政策の顔としては、靖国参拝・歴史修正主義・教育勅語容認・道徳教科化という「日本人の誇り」の回復を掲げた。
この二枚舌は矛盾しているように見えて、実は一つの論理でつながっている。「強い日本を取り戻す」——その「強さ」を経済・技術では合理主義で追い、文化・精神では国粋主義で補強するという構造だ。森有礼が生きていたら、この構造を複雑な思いで見ていたかもしれない。
1889年と2026年——歴史は繰り返すか
森有礼の時代、合理的な制度改革が精神主義勢力に飲み込まれたのは、制度の器だけが先行し、その中に流し込まれる「精神」をコントロールできなかったからだ。
現在も同じ構図がある。GIGAで整備された一人一台端末は、探究学習にも愛国心教育にも使える。教員の「専門性向上」の名目で、国が教育内容に関与する回路が整備されつつある。器の設計者が、中身を決める権限を持つとは限らない。
もう一つの類似点がある。森が暗殺されたのは大日本帝国憲法発布の日だった。国家の「かたち」が確定した瞬間に、それに馴染まない人間が排除された。現在、改憲論議・安全保障法制の変容・AIと教育の接続など、社会の「かたち」が急速に変わりつつある。そのたびに、教育は「誰のものか」という問いが問い直される。
森有礼は「教育で国家を作ろうとした人間」だった。彼は失敗した——制度は作ったが、その精神は別の勢力に奪われた。
2026年の私たちは、同じ問いの前に立っている。誰が教育の「精神」を決めるのか。国家か、教師か、子どもか、社会か。
GIGAの端末が教室に並び、探究学習が始まり、Well-beingが語られる。その風景は一見、明るく未来的だ。しかし器の下に流れる水脈を確認しないまま進むことの危うさを、150年前に暗殺された文部大臣は静かに問いかけている。
制度を作る者と、精神を決める者が、同じとは限らない。


