第24回:「気をつければいい」は、なぜ通じないのか——教員の長時間労働と行動嗜癖のメカニズム

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意志論で解けない問題を、意志論で解こうとする社会の矛盾を、アルコール依存症との類比から解剖する。

アルコール依存症は、気をつければ防げるか

答えは明白だ。防げない。

アルコール依存症は、長期間にわたって大量のアルコールに暴露され続けた結果として生じる。暴露量と暴露期間が臨界を超えたとき、脳の報酬系は変容し、意志の制御が及ばない状態に移行する。「気をつければ依存症にならない」は、医学的に誤りだ。気をつけることはリスクを下げるが、十分な暴露が続く限り、個人の意志はその進行を止めることができない。

これは人格や精神力の問題ではない。曝露の問題だ。そして依存が進行した先には、家庭内暴力、育児放棄、性的逸脱といった破壊的症状が現れる。アルコール依存者が「悪人だから」家族を傷つけるのではない。依存が境界認識と判断能力を段階的に破壊した結果として、それが起きる。

教員の長時間労働に、同じ構造がある

「先生も、もっとうまく時間管理すれば」「意識を変えれば働き方は変わる」——こうした言説が絶えない。だが、アルコール依存症のアナロジーは、この意志論が根本的に的外れであることを示している。

教員が生徒のために長時間働くとき、そこには感情的な強化が伴う。生徒の表情が変わる、感謝される、成長が見える。この応答は報酬として機能する。長期間にわたって「生徒のため」という行動が強化され続けると、報酬系が固定化し、単なる習慣ではなく行動嗜癖に近い状態へと変容していく。意志でコントロールしようとする段階を、すでに超えているのだ。

長期間大量に飲み続けて、依存症にならない人がいないように、長期間にわたって「生徒のため」という感情的報酬に曝露され続けた教員が、意志だけで線を引けると考えるのは無理がある。

嗜癖に陥りやすい人がいる——そして教職はその人を引き寄せる

アルコール依存症には、なりやすい人となりにくい人がいる。遺伝的素因はもちろん、幼少期の愛着障害やトラウマ歴、不安やうつなど内的苦痛が高い状態、他者評価に自己価値を依存しやすい承認欲求の強さ、感情の自己調整の苦手さ、そして他者の苦痛を自分のものとして引き受けやすい高い共感性——こうした特性を持つ人ほど、依存に陥りやすいことが知られている。

そしてこれらのリスク因子は、教員として「向いている」とされる資質と、驚くほど重なる。

「子どもが好き」「困っている人を放っておけない」「誰かに必要とされることに喜びを感じる」——採用面接で評価されるこれらの言葉は、行動嗜癖のリスク因子をそのまま言い換えたものでもある。愛着障害やトラウマ歴を持つ人は、「誰かに必要とされること」で内的苦痛を和らげる回路を持ちやすく、生徒からの依存はその報酬として強力に機能する。共感性が高い人ほど「この子を見捨てられない」という感覚に支配されやすい。

つまり教職という職業は、行動嗜癖に陥りやすい人格特性を持つ人を選択的に引き寄せる構造になっている可能性がある。曝露される前から、すでにリスクを抱えた人材が集まりやすい。そこに長期間の感情的報酬への曝露が加わる。嗜癖の形成は、ある意味で必然に近い。

嗜癖の破壊的症状——教職で何が起きるか

アルコール依存症が単に「飲みすぎ」ではないように、教員の生徒への行動嗜癖も「働きすぎ」にとどまらない。嗜癖が進行すると、個人の内側と外側の両方で破壊的な症状が現れる。

  • 感情の逆流——離脱症状としての怒りと喪失感アルコール依存者が飲めないとき離脱症状を起こすように、生徒が期待に応えないとき、あるいはクラス替えで担当が突然変わるとき、教員は強烈な怒り・失望・見捨てられ感を経験することがある。卒業には式典という集団的な別れの儀式があり感情の整理が促されるが、クラス替えは儀式を持たない突然の切断だ。この感情は嗜癖の証左であり、「情熱ゆえの反応」として正当化されやすいぶん、気づかれにくい。
  • 境界の溶解——プライベートへの侵食休日に連絡が来ても断れない。夜間に相談を受け続ける。家にいても「あの子は今どうしているか」が頭から離れない。嗜癖が深まると、教員は自分の時間と空間を守る能力を失っていく。これは意志の弱さではなく、嗜癖が境界認識そのものを変容させた結果だ。
  • 認知の歪曲——全能感と無力感の交替「自分がいなければこの子はだめになる」という感覚が強化される。教育界ではこれがしばしば「使命感」と呼ばれるが、実態は疲弊と孤立が進むほど強化される認知の歪曲だ。この歪曲は過剰な関与をさらに正当化し、嗜癖を深める。
  • 代替行動の喪失——生徒関与だけが自己確認の手段になる趣味・家族との時間・休息が削られ、生徒への関与以外で自分の価値を確認できなくなる。これはアルコール依存者が飲酒以外の喜びを感じにくくなる状態と構造的に同一だ。「先生は24時間先生だ」という言説は、この症状を美化する文化的装置として機能している。
  • 関係の破壊——嗜癖が嗜癖を生む循環最も逆説的な症状がこれだ。生徒への過剰な関与は、生徒の自律を阻害する。教員への依存を生徒の側に育て、その依存がさらに教員の関与を求める。善意が出発点であっても、行き着く先は双方の自立を損なう共依存の構造だ。

そして嗜癖の末端では、アルコール依存症と対称の極限症状が現れる。ここで強調しておきたいのは、これが発生頻度の話ではないということだ。大多数の教員が逸脱行為に至るわけではない。問題にしているのは頻度ではなく、境界侵食が起きる方向性——機序の類似——である。

アルコール依存症の末端教員の行動嗜癖の末端
家庭内暴力(DV)体罰——「この子のため」という全能感的介入が、身体的侵害にまで至る
育児放棄自分の子のネグレクト——生徒への嗜癖が深まるほど、教員自身の子が放棄される
性的逸脱生徒への性的逸脱——生徒との関係が唯一の自己確認手段になったとき、その関係の質が歪む

これを「ごく一部の問題教員による犯罪」として切り離すことは簡単だ。しかし、嗜癖が境界認識を段階的に破壊し、認知を歪め、抑制を失わせた結果として、それは起きる。個人の邪悪さではなく、構造が生んだ症状として理解しなければ、再発を防ぐ制度設計には至れない。

人間であることが断罪される二重拘束

ここに、より深刻な矛盾がある。

教職が「感情労働」である以上、生徒への愛着・責任感・共感は不可欠な資質だ。採用段階で求められ、評価される。しかし、その感情こそが行動嗜癖への回路の入り口でもある。教員は「大事に思ってしまうこと」で嗜癖を形成し、その結果として疲弊すると、今度は「教職への情熱が足りない」「専門職意識が低い」と断罪される。

飲み続けることを求められながら、依存症になることを責められるのと同じ構造だ。

これはダブルバインドである。感情を持てば嗜癖が形成され、疲弊する。感情を持たなければ「教員失格」とされる。どちらの行動を選んでも非難から逃れられない。この二重拘束が、個人の努力によって解消できないことは自明だろう。

親子の共依存との類比——核家族化という文脈

類似の構造は、親子関係にも観察される。核家族化の進行によって、子の世話を担う大人の数が減少した。かつては祖父母、近隣、地域コミュニティが分散して担っていたケアが、親二人、あるいは一人に集中するようになった。この「密度の上昇」が、心理的境界の溶解を促し、共依存を生みやすい土壌をつくる。

学校においても、同じことが起きている。地域の受け皿が縮小し、家庭機能が弱体化するにつれて、「学校が全部持つ」という重力が強まった。教員一人ひとりに集中する感情的負荷と責任は、以前とは比較にならない水準に達している。行動嗜癖が生じやすい暴露量と期間が、社会構造によって自動的に供給されている。

問い直すべきは、個人ではなく構造だ

アルコール依存症の治療において、「意志が弱かったから」という分析は役に立たない。問われるべきは、なぜその人がその量を飲む環境に置かれ続けたか、だ。

教員の長時間労働についても、同じ問いが必要だ。「なぜその教員はうまく時間を区切れなかったか」ではなく、「なぜその教員が行動嗜癖を生じさせるほどの感情的報酬に長期間曝露され続けたか」を問わなければならない。

嗜癖に陥りやすい特性を持つ人が集まりやすく、嗜癖を生む曝露が構造的に供給され、嗜癖の症状が美徳として称賛される。この三重の構造が重なっている限り、個人への問責は何も解決しない。曝露量を制御し、感情労働の密度を分散させ、教員が人間であることを前提とした制度を設計すること。それが、この問題に向き合う出発点ではないだろうか。

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