第21回:傷つきが権力になるとき③ 傷つきが戦争になるとき——集合的被害の記憶と、指導者という点火装置

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集合的被害の記憶と、指導者という点火装置

戦争はほぼ例外なく、「我々は傷つけられた」という言語で始まる。
侵略は自衛として語られ、攻撃は被害への応答として正当化される。
これはDVと同じ構造だ。スケールが違うだけで。

燃料としての記憶

第一稿で教員の過労死を、第二稿でDV・虐待の構造を書いた。そこに一貫していたのは、ケアの非対称性が固定された関係において、「傷つき」が権力の言語になるという構造だった。

戦争を見るとき、同じ構造が国家スケールで現れていることに気づく。

民族的・歴史的被害の記憶は、集団の中で継承される。植民地支配の屈辱、虐殺の記憶、領土の喪失——これらは事実として存在し、その痛みは本物だ。しかしその記憶が「我々は被害者だ」という集合的アイデンティティとして固定されたとき、何かが変質し始める。

傷つきの記憶は、燃料になる。それ自体は中立だ。しかしその燃料に火をつける者が現れたとき、戦争が始まる。

侵略国家は「我々は傷つけられた」と言いながら進軍する。
攻撃は常に、被害への応答として語られる。——この言語の構造は、DVの加害者が使う言語と同型だ。

指導者という点火装置

歴史的被害の記憶が蓄積された社会に、ある種の指導者が現れる。「傷ついた民族の代弁者」として登場する人物だ。

この指導者のレトリックは一貫している。「我々がどれほど傷つけられてきたか」を語り、「その傷つきに怒りを持つことは正当だ」と告げ、「だから行動する」と宣言する。大衆はこの言語に共鳴する。なぜなら、傷つきの記憶は本物だからだ。嘘で人は動かない。本物の痛みを正確に言語化する者が、最も危険な点火装置になる。

DVの構造と重ねると、見えてくるものがある。DV加害者もまた、しばしば本物の傷つきを持っている。幼少期の虐待、承認されなかった経験、裏切られた記憶——それは本物だ。しかしその傷つきが、パートナーを支配する権力の言語に転化される。指導者と大衆の関係もこれと同型だ。指導者の傷つきへの共鳴が、大衆を動員する燃料になる。

反論を封じる構造

この構造が完成したとき、反論は不可能に近くなる。

「戦争に反対する」と言えば「被害者の痛みを軽視するのか」と返される。「歴史的被害は認めるが、今の行動は間違っている」と言えば「加害者の側に立つのか」と封じられる。傷つきの言語で武装した集団は、批判を「二次加害」として処理する。

第二稿で書いた「沈黙の三層」——言えない、信じてもらえない、言った瞬間に加害者にされる——が、国家スケールで再現される。戦争に反対する声は、この三層によって封じられていく。

知っていても、取り込まれる

ここで一つの問いが残る。この構造を知っていれば、取り込まれずに済むのか。

おそらく、少しは取り込まれにくくなる。構造を名指すことは、最初の抵抗になる。しかしこれは最終的に知識の問題ではなく、感情の問題だ。「我々は傷つけられた」という言語が人々の胸に届くとき、構造論は無力に近い。痛みは本物で、怒りは本物で、仲間への連帯感は本物だ。その感情の渦の中で、構造を冷静に見続けることは、人間にとって極めて困難だ。

ミイラ取りがミイラになる——第二稿で書いたこの言葉は、戦争においても成立する。反戦を叫ぶ者が、別の傷つきの言語に取り込まれることは珍しくない。正義の言語は、常に新しい燃料を探している。

それでも人類はこのミラーハウスから学べるのか。私にはわからない。

第一稿から第三稿まで書いてきて、一つだけ確かなことがある。構造を知ることは、構造から自由になることではない。しかし迷路の形を描くことをやめた瞬間に、迷路はより深くなる。

傷つきが権力になる。権力が沈黙を生む。沈黙が死を生む。死が戦争を生む。——この連鎖の形を、せめて言葉にし続けること。それが今の私にできる唯一のことだと思っている。

シリーズ「傷つきが権力になるとき」
第1稿:教員の過労死は、死なないと露呈しない——ケアの非対称性と沈黙の構造①
第2稿:傷つきが権力になるとき——DV・虐待・教員への社会的暴力
第3稿:傷つきが戦争になるとき——集合的被害の記憶と、指導者という点火装置

※ 本コラムは特定の国家・民族・政治勢力を批判する意図はありません。「傷つき権力」の構造を、個人から集団・国家スケールまで通して考えるための試論です。

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