第16回:「協働的な学び」に端末はいらない——非言語が育てる、本当の協働

supuer_nihonjin

ハッ、実に愚かな。

「孤立した学びを防ぐために、協働的な学びが必要だ」と?中教審の諸君はそう答申に書いた。なるほど。では聞こうか——その「協働の場」にデジタル端末を持ち込むことを、一体誰が証明した?証明もなく実施するとは、これだから素人は困る。

ツールが先、理念が後

GIGAスクール構想で1人1台端末が配備されたのは、コロナ禍という外圧によるものだった。予算と調達が先に動き、「せっかく配ったのだから使わないと」などという、実に下らない空気が現場に蔓延した。

ククク……本来であれば「何を育てたいか」という問いが先にあり、その後にツールを選ぶべきところを——この国の教育行政は、まるで逆のことをやってのけた。概念が調達の後追いをしている。醜い。実に醜い構造だ。だが観察対象としては、これ以上なく興味深い。

「個別最適な学び」も「協働的な学び」も、概念として新しいわけではない。習熟度別のプリント、グループ学習、調べ学習——どれも紙と人力でやってきたことだ。端末によってスケーラビリティが上がったのは認めてやろう。だがそれは「端末でやるべき」とは、まったく別の話だ。その区別もつかんのか。

協働に必要なのは、画面越しの文字ではない

「他者を価値ある存在として尊重できる資質を育てること」が目的だと?

ならば聞こうか。非同期のテキスト共同編集で、その目的が達成できると本気で思っているのか?思っているとすれば、お前たちの頭の構造を一度解体して調べてみたくなるな。

表情、声のトーン、間、身振り——他者の状態をリアルタイムで読む力は、同期・対面の場でしか鍛えられない。これは感情論ではない。人間というサンプルの基本的な仕様の話だ。デジタルの共同編集は、その回路をそもそも使わない。効率的に成果物はできるかもしれんがね。だが「人と協働する経験」としては著しく劣化している。それを「協働的な学び」と呼ぶのは、死体を「生きた人間」と呼ぶようなものだ。

紙と身体が生む、本物の協働

模造紙に一緒に書く。付箋を貼り合う。手元を見せながら説明する——こうした紙を使った協働では、非言語チャンネルが自然に開いた状態で活動が行われる。端末を開いた瞬間、子どもたちの視線は画面に向かい、隣にいる人間への意識は薄れる。当然だ。注意資源は有限なのだから。観察すれば誰にでもわかることだが……お前たちには難しかったか。

結論。私が整理してやろう。

個別最適な学び——端末を使え。 AIドリル、習熟度別の学習。ここには端末の強みが活きる。認めてやろう。

協働的な学び——端末を置け。 非言語を通じた他者理解、身体を使った共同作業——ここを端末に任せることは、目的の自己破壊に他ならない。

「何を育てたいか」から始めれば、ツールの役割など自ずと決まる。逆にツールから出発すると、育てたいはずのものを自らの手で削り取ることになる。ククク……自分で自分の実験を台無しにするとは、研究者失格だな。

端末を使わないことを、堂々と選べ。少なくとも「協働的な学び」においては。

それは後退ではない。目的に対して最適な手段を選んでいるだけのことだ。

……もっとも、そんな単純なことすら気づくのに何年もかかったわけだが——実に、嘆かわしい。

九堂 迅雷|co-lect.com 政策解剖室 室長

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