
不祥事が起きるたび、学校には新しい研修がやってくる。
ハラスメント研修、コンプライアンス研修、情報セキュリティ研修、不祥事防止研修。
私は現場で、そのたびに教員たちが「また研修か」と呟くのを何度も見てきた。
それは単純な反発ではない。問題の重大性を軽視しているわけでもない。むしろ、「なぜ学校は、問題が起きるたびに制度ではなく研修を増やすのか」という、うまく言葉にならない違和感だったのではないかと思う。
この記事は、その違和感を理論化する試みである。
不祥事は「特殊な個人の問題」なのか
不祥事対策研修が暗黙に前提としているのは、一つの人間観だ。
「問題を起こしたのは、倫理的に問題のある個人だ。その個人に適切な教育を施せば、再発を防げる」
これはインクルーシブ教育の文脈でいう医療モデルの発想である。問題は個人の内側にある。だから、その個人を正常化する介入が必要だ、という論理構造になる。
しかし、実際の学校現場で不祥事が起きる文脈を見ると、話はそれほど単純ではない。
睡眠不足、過労、職場の孤立、密室化した人間関係、権力勾配、感情労働の蓄積、「相談したら負け」という文化——こういった条件が重なったとき、人間の判断力や衝動制御は普通に落ちる。これは「擁護」ではなく、人間を現実的に見るということだ。
航空業界は、この事実を制度設計の起点にしている。「ミスをしない完璧な人間」を前提にしない。人は疲れる、注意力は切れる、思い込みをする、階層圧力で誤判断する——その前提で、チェックリスト、ダブルチェック、情報共有、休息規定を組む。「人間は壊れる」を出発点にするからこそ、事故率が下がった。
社会モデルで問い直すなら、問いが変わる。
「なぜ逸脱した個人が生まれたのか」ではなく、「なぜ逸脱が起きやすい環境が放置されているのか」へ。
研修は何を「生産」しているのか
ここで一つ問い直したい。不祥事対策研修は、本当に再発防止のために機能しているのか。
研修の効果が疑わしいとき、私たちはつい「効果がない」と言う。しかしより正確には、「再発防止」とは別の効果を十分に果たしている、と見た方がいい。
研修は何を生産するか。
- 組織が問題を認知したという記録
- 適切な指導を行ったという証明
- 「管理責任を果たした」という正統性
- 問題は特殊な個人にあった、という物語の確定
つまり研修は、再発防止装置である前に、統治の可視化装置なのだ。
記録が残る。対応した実績ができる。「問題は解決済みである」という組織の物語が整う。そして教員は、その研修に参加することで、「管理される主体」として静かに再編成される。
不祥事研修は「誰が正常で、誰が逸脱か」を組織が定義し直す場でもある。
なぜ制度改革ではなく研修なのか
この問いは、コストの問題だけではない。
制度改革——人員を増やす、業務を減らす、密室性を下げる、労働時間を制限する——は、管理側自身の権限や運営責任を問い返してしまう。長時間労働を放置してきた教育委員会の責任が可視化される。人員不足を続けてきた文部科学省の問題が浮上する。
しかし研修なら、問題を「個人の意識」へ移せる。
しかも研修は、導入しやすい。予算化しやすい。記録化しやすい。「対応しました」と言いやすい。だから不祥事が起きるたびに、制度はほとんど変わらないまま、研修だけが層のように積み上がっていく。
これを私は「研修国家」と呼びたい。
研修国家の本質は、制度的解決を研修的解決へ変換し続けることで、構造改革を永続的に不要にする統治様式だ。研修が増えるほど、制度が変わらなくて済む。
「自発性の強制」という統治
研修国家が持つもう一つの特徴は、行動の統制ではなく主体の形成を要求する点にある。
通常の命令は「これをするな」で終わる。しかし研修は「そう思わない人間になれ」を要求する。外部的な規制ではなく、内面的な自己規律の植え付けだ。
これは、日本の教師聖職論と同型の構造を持っている。
「長時間労働を命じます」ではなく、「子どものために自然とやるべきだ」になる。「休息を制限します」ではなく、「使命感のある教師なら限界を超えられる」になる。外圧を内面化へ変換する。
この統治様式の巧妙さは、抵抗しにくい点にある。命令なら拒否できる。しかし、「あなたは子どものために頑張れないのですか」と言われると、倫理の次元に引き込まれる。労働問題が人格問題へ変換される瞬間だ。
そして、この「自発性の強制」は明治期以来の教師像と連続している。教師を「労働者」ではなく「人格的使命体」として位置づけることで、労働条件問題を倫理問題へ変換してきた。聖職イデオロギーは、単なる精神論ではなく、制度の不備を人格で埋め合わせる補完装置として機能してきたのだ。
再生産される自己責任の論理
学校が他の組織と根本的に異なるのは、統治される教員が同時に、次世代の統治主体を育成する場でもあるという点だ。
自己責任を内面化した教師が、自己責任を内面化した子どもを育てる。
「我慢できる子が偉い」「空気を読め」「自分を律せよ」「助けを求める前に努力しろ」——こういった規範は、教育を通じて再生産される。学校論は、教育論であると同時に「どのような主体を国家が作ろうとしているか」という問いに直結している。
不祥事対策研修が個人の内面を標的にする限り、この回路は閉じたまま回り続ける。
転換のために
必要なのは、新しい研修ではない。
「理性を失わない教師」を前提にすることではなく、人間は疲弊し、壊れ、判断を誤るという前提で制度を組み直すことである。問題を起こさない完璧な主体を求めるのではなく、壊れかけた主体を前提に事故が拡大しにくい環境を作ること。
それは「教師の覚悟」を問う発想から、「制度の責任」を問う発想への転換でもある。
そして、その転換なしに、研修はこれからも積み上がり続ける。
——それは、学校が変わっていないことの証明として。


