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要約
令和8年8月4日に開催された科学技術・学術審議会学術分科会・人文学・社会科学特別委員会(第32回)では、「人文学・社会科学の更なる発展のためのAI for Scienceに関する当面の施策の方向性(案)」(資料2-1・2-2)が主要議題として審議された。同案は、検討の経緯、人文学・社会科学を取り巻く現状、AI for Scienceがもたらす可能性、直面する課題、今後の方向性、引き続き議論すべき課題という6章構成をとり、AIが研究プロセスのあらゆる段階に関与しうる中で、質的研究を中心的な方法論とする人文学・社会科学がどのようにAIと向き合うべきかを整理している。
案文は、AIによる分析の高速化が研究者の解釈・思考・理論構築に割く時間を増やし研究の質を高めるという期待、膨大な資料の横断分析によって従来の質的研究では見出せなかった知見が得られる可能性、研究の発想段階からAIと対話することで創造性が発揮されるという展望を示す一方、研究体制・コスト構造の変化、AIに準拠したデータ基盤整備の遅れ、権利問題への対応、研究者間のAIリテラシー格差、そしてAIの透明性・信頼性確保という5つの課題群(4.1〜4.5)を挙げている。加えて、前回(第31回)の委員意見(資料1-1)では、素案が「総花的」であり論点の整理や優先順位付けが不十分との指摘、AI活用の必要性そのものの説明不足、そして「人文学・社会科学の価値が変わらないことの根拠が示されていない」という補論部分への懐疑的な意見も出されている。
こうした整理は総体として、AI for Scienceの推進という国全体の政策的方向性の中に人文学・社会科学を位置づけようとする意欲的な試みである一方、現場の研究者がこの案をどう読むかという視点からは、いくつかの構造的な緊張関係が浮かび上がる。以下、現場視点から6点の懸念と、それに対応する改善提案を提示する。
現場視点の懸念
1. 研究体制・コスト変化への対応が「連携の必要性」の指摘にとどまり、負担の全体像が示されていない 案文は、チーム型・共同研究型の研究手法の拡大に伴い共同利用・共同研究拠点が減少傾向にあるという矛盾した状況を指摘しつつ、「時代の変化に即した研究環境整備、支援の枠組みが必要」と述べるにとどまる。個々の研究者・研究機関が具体的にどれだけの追加的な体制構築負担を負うのか、その負担が既存の研究活動とどう衝突するのかについての定量的な見通しは示されていない。
2. データ構築の評価主体・評価基準が不明確なまま、データ整備が自己目的化するリスク 第31回の意見でも「データを構築することを評価すべきなのは誰であるのかが分からない」との指摘があったにもかかわらず、案文は「高精度かつ大量のデータを構築することを正当な業績として評価することが必要」と述べるのみで、評価主体・評価基準・評価の実施体制については踏み込んでいない。誰がどのように評価するかが定まらないまま「データ構築」だけが自己目的化した指標として先行する懸念がある。
3. AIリテラシーの個人差が、体系的な育成環境の不備ではなく研究者個人の努力不足として扱われかねない 案文は、人文学・社会科学の研究者間でAI・デジタルへの理解度に「大きな差がある」としつつ、その原因を「体系的に習得する環境が乏しい」「どのように学べば良いのか明確になっていない」という構造的要因に求めている。しかし今後の方向性(5.2)で挙げられる対応策は、東京大学大学院のような大規模大学の先行事例の紹介にとどまり、地方大学・中小規模の研究機関に所属する研究者への支援策は具体化されていない。制度が整わないまま個人の適応力の差として現場に押し付けられる構図になりかねない。
4. 市民・地域保有資料のデジタル化格差への対応が、財政的裏付けを欠いたまま「支援」の表明にとどまっている 案文は、市民・地域が保有する資料のデジタル化が「点在的」に行われており、我が国の文化・歴史・社会の全体像を「面として」捉えられていないという地域間格差の実態を明確に認識している。しかし今後の方向性(5.3)では「デジタル化への支援」「権利問題支援人材の養成」という方針が示されるのみで、具体的な予算規模や優先実施地域、実施主体の役割分担は示されておらず、地域間格差が構造的に温存される懸念が残る。
5. AIの透明性・信頼性確保(Human in the loop)の実装が、効率化・高速化の強調に埋没しかねない 案文および第31回の委員意見の双方で、学習データの欧米中心性による我が国の文化に関する誤出力リスクや、ハルシネーションへの対応として「人間の価値観による補正」(Human in the loop)の重要性が繰り返し強調されている。しかし同時に、AIによる「研究プロセス全体の高速化」「研究の精緻化」が案の前面に押し出されており、検証・解釈という手間のかかる過程が、スピードを重視する研究現場の実務の中でどこまで実質的に担保されるかは不透明である。
6. 権利問題への対応が、法的整備よりも研究者個人の倫理観・信頼関係構築に依存する構造になっている 案文は、所有権・肖像権・著作権等の「複雑な権利関係」がAI活用によって一層複雑化していると認めつつ、その対応については「研究者としての倫理観」「信頼構築のためのコミュニケーション」といった研究者個人の資質に依拠する記述が目立つ。第31回の意見でも「複雑な権利問題というのはどういうものか、法的な対応が可能なものなのか、文部科学省が検証すべき」との指摘があったが、案文における対応は「権利問題支援人材の養成」という人材育成策にとどまり、制度的・法的な解決の道筋は示されていない。
現場視点の懸念を踏まえた改善提案
1. 研究体制拡大に伴う負担の実態調査と、共同研究拠点減少への対抗策を先行して提示する チーム型研究への移行によって現場にどの程度の追加的コスト(人員配置、システム運用費、ライセンス料等)が発生しているかを定量的に把握する実態調査を先行実施し、共同利用・共同研究拠点の維持・再編に関する具体的な財政措置を今後の方向性の中に明記すべきである。
2. データ構築業績の評価主体・評価基準を明文化した上で施策を実施する 文部科学省または学術振興会等が主体となり、データ構築業績を評価するための具体的な基準・評価体制(査読相当の仕組みを含む)を先に策定し、それを踏まえてデータインフラ構築への研究者参加を促す設計に改めるべきである。評価の枠組みが定まらないまま構築を推奨する順序を見直す必要がある。
3. 地方大学・中小規模機関を対象にしたAIリテラシー育成プログラムを優先的に整備する デジタル・ヒューマニティーズ・コンソーシアム事業の教育プログラムについて、大規模大学の先行事例の紹介にとどめず、地方大学や中小規模の研究機関を対象とした巡回型・オンライン型の育成プログラムを別途設計し、リテラシー格差の是正を個人の自助努力に委ねない体制を構築すべきである。
4. 市民・地域資料のデジタル化に、優先順位と予算規模を伴う複数年度計画を策定する 「支援」という抽象的な表現にとどめず、デジタル化が特に遅れている地域・資料類型を特定した上で、複数年度にわたる具体的な予算配分計画を策定し、地域間格差の是正を数値目標とともに進捗管理できる仕組みを導入すべきである。
5. Human in the loopの運用を検証可能な手順として制度化する 「人間の価値観による補正」を理念的な記述にとどめず、検証・解釈のプロセスを研究成果の公表フローの中に明示的な手順(チェックリスト、第三者レビュー等)として組み込み、高速化・効率化の圧力の中でも検証過程が省略されない仕組みを制度設計に反映すべきである。
6. 権利問題への対応を、研究者個人の倫理観任せにせず法的整備とセットで進める 権利問題支援人材の養成と並行して、文部科学省が所有権・肖像権・著作権等に関する具体的な法的整理・ガイドラインの策定作業を早期に着手し、研究者個人の信頼構築努力に依存しない制度的なセーフティネットを整備すべきである。
人文学・社会科学特別委員会(第32回) 配付資料
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/siryo/1421468_00004.htm


